70代を迎え、自分の人生のエンディングを真剣に考えるようになったとき、私が最も強く感じたのは「子供たちに葬儀の無駄を押し付けたくない」という思いでした。私自身の経験を振り返ると、30年前に実父を亡くした際、立派な葬儀をすることが親孝行だと信じ込み、当時の貯金のほとんどを使い果たして250万円の葬儀を行いました。しかし、今思い出されるのは、派手な祭壇や高級な仕出し弁当の味ではなく、父と過ごした静かな日曜日の午後の光景や、叱られたときの手の温もりです。形あるものへの投資は、時間が経てば驚くほど虚しく、無意味なものに感じられました。だからこそ、私は自分の終活ノートに「葬儀は極限まで簡素に、無駄を省くこと」と明記しました。まず、お墓については墓じまいを行い、散骨を選択しました。数100万円かけて墓を維持し、子供たちに毎年の墓掃除や管理料の負担を強いることは、私にとって最大の無駄であり、罪悪感の源だからです。葬儀についても、近親者のみの直葬で十分だと伝えました。新聞の訃報広告も、豪華な供花も、高い戒名も不要です。その代わりに、私が葬儀に使うはずだった200万円を、孫たちの大学費用や、家族で一度豪華な旅行に行くための資金として残すことにしました。死んでから花に囲まれるよりも、生きているうちに家族の笑顔を見ることの方が、私にとっては遥かに価値のある投資です。多くの高齢者が「世間体が悪いから」と、子供たちに負担を強いる葬儀を望んでしまいますが、それは親としての真の愛情でしょうか。死後の形式にこだわるあまり、生きている家族の経済状況を圧迫するのは、本末転倒な無駄です。私は地域の終活セミナーでこの考えを話すことがありますが、多くの同年代の方々が「実は自分もそうしたかった」と、ホッとした表情を見せます。無駄を省くことは、決して人生を粗末にすることではなく、むしろ人生の優先順位を整理する作業です。私は残された時間で、無駄な葬儀の心配をするのではなく、いかに日々を楽しく過ごし、家族に良い思い出を残すかに集中しています。葬儀の簡素化は、私から子供たちへの「最後にして最大の贈り物」だと思っています。金銭的な遺産だけでなく、精神的な自由を与えること。形式に縛られず、それぞれの心の中で自由に私を思い出してくれれば、それだけで十分なのです。無駄を削ぎ落とした先に待っているのは、身軽で晴れやかな旅立ちです。私は今、自分の葬儀が、一円の無駄もなく、しかし無限の愛情に包まれた静かなものになることを確信しており、それが今の私の生きる活力にもなっています。
終活で見直すべき「葬儀の無駄」と子供たちへの贈り物